日本紀行

関内・横浜観光


関内・横浜

★★★ 地域
昔は横浜と言えば関内のことでした。最初のガス灯や、アイスクリームが生まれた、横浜の原点となる界隅です。
【私と関内・馬車道】盛岡から東京へ戻ってきて、勤めた会社が関内に有りました。ここの雰囲気がとても気に入り、よく母を連れて横浜を散策しました。 当時はまだ東京に住んでいた為、隅々まで知りませんでしたが、それでも、馬車道や関内の歴史ある建物を十分に堪能しました。 お奨めは「勝烈庵」のとんかつ、「馬車道十番館」のお茶 ※「勝烈庵」の店内には棟方志功の絵画がたくさん飾って有ります。
※「馬車道十番館」は文明開化の雰囲気が味わえるはずです。
住所:〒231-0045 神奈川県横浜市中区
アクセス:JR関内駅下車直ぐ





関内駅の前の風景

関内駅周辺の風景

伊勢佐木町商店街 (イセザキモール)

開国記念祭石碑

【夜の関内を散策】


関内

関内

関内

関内

横浜スタジアム

海岸通り

海岸通り

関内


2017/03/28 関内散策
・吉田橋関門跡:かつて、関所があり、関所の内と外で内が関内、関内はその名残りです。


吉田橋関門跡

2017/03/28 野毛から馬車道駅まで散歩
関内駅周辺


吉田町

伊勢佐木町入り口

関内駅

1988/05/28 桜木町駅周辺 マレーシアのお嬢さんと


三人百姓の前で、閉業


関内について
関内(かんない)は、神奈川県横浜市中区にある大岡川、JR根岸線、中村川と海に囲まれた地域である。関内という正式地名はない。当地域は隣のみなとみらいと並び、馬車道、中華街、山下公園など古くからの観光地が多くあり、連日多くの観光客で賑う。近年、みなとみらい線が開通し、横浜駅周辺、みなとみらいとの繋がりが強くなり再活性化している。また、神奈川県庁、横浜市役所、神奈川県警など官公庁や企業が集まる、横浜の中心地である。横浜港が開港して以来西洋文化を一気に取り込み、アイスクリーム、ビール、ガス燈など、横浜市が日本初と主張するものが多くあり、昭和初期の近代洋風建築が残されている。
・【概要】  かつて関内周辺は海であったが、江戸時代に「吉田新田」として埋め立てられ現在のような陸地になった。そのため道路は碁盤の目状に整備されており、町名は古来からの物ではなく、埋め立てに関わった人物に因むもの、埋め立てた当時の謡曲や百人一首から取られているため、綺麗な町名、縁起のいい町名が付けられている。開港当時の関内(横浜)は、貿易会社、外国の公館などを置くための長崎の出島を小規模にしたようなものであった。地形も同様に、外国人を宿場の方に来られなくするため、川に囲まれていた。 関内・関外・横浜駅周辺・みなとみらい・ヨコハマポートサイド地区は、横浜の都心と位置づけられている。近年は、社会・経済情勢の変動に伴い、古い事務所・店舗ビルを取り壊してマンションを建設
・分譲する動きが目立ち、都市画上の課題となっている。
・【地名の由来】
江戸幕府はアメリカに開港を要求され、当時「神奈川」の隣町であり、寒村であった「横浜村」(神奈川の横にある浜、横に伸びた浜)を神奈川の一部と称し、この地を開港した。それは幕府が、東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかった為である。神奈川宿から横浜村へ道が作られ(横浜道)、間にある大岡川の分流「吉田川」に「吉田橋」を架け、その橋に関門という関所の様なものを置いた。その関門の内側、横浜側を「関内」と呼んだことに由来する。神奈川運上所(今の県庁のある場所)の西側が日本人居住地、東側が外国人居留地であった。 1860年に横浜村周辺は、今までの川に加えて掘割りを掘り、橋を架け、橋を通らなければ横浜(関内)には行けない様にし、全ての橋に関門を設けた。当時、武士と外国人との接触を避けるため、武士は関内には入れなかった。吉田橋から旧居留地に至る道が、今の「馬車道」である。現在、吉田川が流れていた所は首都高や大通り公園に、橋は道路と一体になってしまい、石碑でそこに川が流れ、橋が架かっていたことが解るのみである。 吉田橋は1869年に架けかえられた。設計はリチャード・ヘンリー・ブラントンというイギリス人技師。 近代化が進むにつれ関門の存在意義が薄れ、やがて廃止となったが、長年の慣習と名残りで、今もこの辺りを「関内」と呼んでいるのである。また、今の伊勢佐木町辺りは関門の外、「関外」と呼ばれた。現在関内と名が付いているものは、JR・横浜市営地下鉄の関内駅、関内ホール(横浜市市民文化会館)のみである。(民間施設は除く)。(Wiki)



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